『この世界の片隅に』と太極旗

ご多分に漏れず、自分もまた「この世界の片隅に」を見た後、様々な想いが淀んでいる。そんな中、劇中のクライマックスで掲げられる太極旗に関する記述を、他のはてなブログで読み、自分で思いを吐き出したくなり、初めての「はてなブログ」を書く。ただ、自分はあまりこういう文章は書かないのでし、通勤時間の限られた時間で急いで書いているため、言い足りないところもあるかもしれない。あとで修正・削除するかもしれない。(追記・結局その後、数日にわたってちょくちょく修正した。)

玉音放送の後、朝鮮人部落に掲揚された太極旗を見た後のすずさんのセリフが、原作と映画で大幅に入れ替えられた件については、

「【ネタバレ】『この世界の片隅に』を観た」
http://ichigan411.hatenablog.com/entry/2016/11/13/233806

のぶコメに書いたのだが、監督自身がその理由について、

https://webnewtype.com/report/article/92131/

にて、「あのシーンですずさんは日本という国をいきなり背負わなくてもいいんじゃないか?と思ったんです。彼女の身のうちのことで、同じように悔しいという思う理由を考え出せないかと考えた」と語っている。

しかし、このセリフの変更は、映画の観賞前に原作を読み、当該シーンを覚えている人にとっては、唐突で不自然に感じる。そのことについて、以下、自分が感じたことをざっと書いてみたい。

 

終戦直前の日本は、労働力も食料も欠乏し、かろうじて植民地、特に朝鮮半島から移入されたコメや人的資源で何とか維持できる状態だった。

その背景として、大正期以降、朝鮮半島や台湾におけるコメの生産量は大きく増大し、増産分が安価に内地に流入してきたことが挙げられる。輸送コストを含めても、外地米は内地米に比べて1〜3割程度安価であり、結果として内地で消費されるコメの3割以上は朝鮮や台湾で生産される外地米となった。コメの公定価格は、内地の農民と市民双方の要望のバランスの上に設定され、その調整は当時の新聞トピックの一つだった。

すずさんはなぜ太極旗を見て泣いたのだろうか。片淵監督は資料調査の結果、インタビューでは明言していないが、おそらく原作のすずの心情は妥当でないと結論したのだろう。なにしろ原著者自身が「なぜすずが泣いたのかわからない」と言っている。原著者もおそらくは多分に物語をより感動的にしたい心情が入っていたと思うし、原作のすずさんのセリフは格好がいい。

それでも、太極旗の掲揚をきちんと描いたのは良かったと思う。40年くらい前までは、終戦後の朝鮮人・中国人の日本での行動についての描写は、それほど問題になっていなかった。例えば「はだしのゲン」には、終戦直後の列車の中で、朝鮮人が座席に座っている日本人を棒で叩いて追い出して、座席を取り上げるシーンがある。しかし「教科書問題」が中韓で噴出し、「日本は第二次大戦で被害者としての自分ばかりを強調し、加害者としての観点を無視している」という非難が上がり始めてから、在日朝鮮人に対する言論での扱いは慎重になり始める。だからこそ、タブー抜きで敢えて終戦直後の太極旗の掲揚を描いた、原著者と監督の判断は素晴らしいと思うし、イデオロギー抜きで当時の出来事を議論できる、新しい時代のさきがけとなって欲しいと思う。

あらためて、なぜ「すず」は太極旗を見て泣いたのか、自分なりの考えを書きたいと思う。玉音放送の聞くシーンでは、お年寄りは「やれやれ、やっと終わった」といい、一番若いすずさんだけが憤る。子を育て終わり、最も大変な自分の社会的使命を終えつつあることを自覚する人間よりも、不具になりながらも未来に向けて挑戦し、来るべき自分の使命に生きる人間の方が、より困難な生活の予感と、これまでの努力の報われなさに、怒るのは当然ではないだろうか。そして、掲揚された太極旗を見て、自分達が食べていた外地米がこれから無くなる恐怖、そしてそれらを作っている植民地の労務者への自分たちの仕打ちと、その報いが自分たちにも返ることを想像し、今後の屈辱の予想に悲しみを感じたのではないだろうか。

そして、そのような感情は、国家の大義や国体の護持とは別のところに根ざしているものではないか、その思いが、このセリフの変更の背景にあるのではないか。

この映画に描写はないが、当時、大人は朝鮮・中国人を差別し、それを見た子供も、彼らをいじめ、「まーらかぴーだ」とか「のーてんはえら」のような侮蔑の言葉を投げつけていた。外地出身者に対する子どもたちのイジメは、当事者もあまり語ることはなく、「当時の暮らしぶり」の記録資料でもなかなか見えにくい案件で、「足で調べる」労苦の末に、ひょっとしたらこのことに気付いた監督が、朝鮮人部落に掲げらた太極旗を見た当時の若者が幼年期を思い出して吐露した思いが、あのセリフに繋がった気がしてならない。

この映画は終戦で終わらない。こうの史代の原作は、昭和と平成で年号が同期する形で連載され、その最終回は平成21年1月である。敗戦から4ヶ月、大人たちが占領軍の残飯をありがたく頂き、子どもたちは占領軍兵士のチョコレートに群がるシーンを描ききったのは、映画を鑑賞した人が、日本の「戦争」だけでなく「戦争後」の生活についても考えさせてくれるきっかけを増やしてくれたと思う。

実際、図書館などに見える終戦直後の日本に関する当時の市民の記録は、戦時中のそれと比べてかなり少ない印象がある。それは、当時が忌まわしく、封印したかった記憶だったからではないだろうか。飢餓の極限状態は、外地移入米が途絶え、多数の植民・出征者が引き揚げ、国家統制が崩壊した、戦後に起きた。日本各地で食べ物をめぐる醜い争いがあった。

すずさんと、あの誇り高い径子さんが、米軍のゴミ入り残飯を食べて共に「おいし~い」と感動した、その1シーンに凝縮される、法を無視し誇りを捨てなければ生きていけなかった時代。当時、法を破ることよりも、餓死を選んだ裁判官がいた。天皇玉音放送の次に自らラジオで国民に語りかけたのは、食べ物に関する話だった。統治崩壊を恐れたGHQは、連合国の国内世論の反対を押し切り、ララ物資等の食料支援を日本に送った。日本はアメリカに餌付けされた格好となり、その記憶は日本人の脳の深いところに刻まれた。

日本が植民地に頼らずにコメの自給率を明治以前の水準に回復するのに、戦後20年近い歳月を要した。そのトラウマは、長く日本の農政に食管制度として残り続けた。

敗戦国の女性の運命は過酷だった。ドイツでは戦後、数百万の女性がソ連兵にレイプされ、その多くが自殺した。ソ連が侵攻した満州も同様だった。満蒙開拓団などの大陸の引揚者の拠点であった博多では、望まぬ子を孕んだ女性の中絶手術が現地の医者により昼夜を問わず続けられた。そのソ連も、適齢期の男性が全て徴兵されて枯渇した後、女性を戦闘員として前線に送り込んだ。

アメリカは、日本占領の円滑化の意図もあり、USOF(米国占領部隊)に日本との交戦経験がない部隊を選んだ。その意味では、すずさんのような内地の女性はまだ敗戦国としては恵まれた立場だったのかもしれない。そうはいっても、進駐軍による女性への暴行事件は相当数あったし、それらの報道は禁止されていた。また、多数の日本兵が戦死したため、復員兵1人にトラック1台分の女性が待っていると言われたほど、女性は配偶者に困り、生きていくためにパンパンとして街角に立つ人々も多かった。

この映画の舞台が終わる直後、1946年2月から、呉の進駐軍はUSOFからBCOF(イギリス連邦占領部隊)に交代する。2月1日の先遣隊の上陸から、司令部の設置場所まで、呉はBCOFの中心となった。それは同時に、映画「仁義なき戦い」の舞台がが始まるときでもあり、そのオープニングのシーンはまさに上記の状況を象徴している。

それでも朝鮮戦争が始まり、景気が良くなり、食料供給も安定すると、忌まわしい記憶は封印される。この映画もまた、終戦後の真の飢餓や闇市を正面からは描かない。

男たちが始めた戦争の背後で、飢餓や空襲から「ふつうの生活」を守るのに奮闘する女たちは、イギリスにもドイツにもいた。戦争が終わり、呆然とする男たちの後ろで瓦礫を片付ける Trümmerfrau はすずさんだった。20世紀前半、総力戦で飢餓を経験したすべての国に、すずさんはいた。『この世界の片隅に』は圧巻的な再現性により鑑賞者を当時にタイムスリップさせ、資料を読む以上の体験を、当時を知らない世代に普遍的に与えてくれる。

そしてその普遍性としての「この世界の片隅に」という物語に、こうの史代の原作の大仰なセリフは似つかわしくないと思うし、それが片淵監督のインタビューの論点ではなかったのだろうかと思う。